マナーを守る理由をマナーそのものに求めてはいけない
「マナー(道徳)を守って立派な人になりましょう」と、小学校の頃から教えられてきた。ところで、なぜマナーや道徳を守るべきなのか。
マナーや道徳が目指すところは、たくさんの人と交流しながら生きていく中で、お互いにストレスなく交流すること。そのためにお互いに自分の欲求の一部を抑えて、譲り合うことを求めているのではないだろうか。
目的地から考えると、道徳は時代によって、社会によって変化して当然に思える。なぜなら、人間は少しずつ変化しているから。
ところが、「道徳は“そう決められているから”守らないといけない」という人もいる。私はそれが無益どころか、場合によっては害になると思う。
現実に適合していないケースはたくさんある。例えば、携帯電話の優先席での使用(通話以外ね)。または、同性婚の問題(社会秩序への影響の問題はないと私は思う)。私はどちらかというと嫌煙派だけど、副流煙が抑えられるタバコだけになれば、禁煙席は不要だろう。
つまり、「このマナーは昔からあるのだから、当然今も継続するべき」という考えはバカバカしいと思っている。現状維持は考えなくていいから楽なのだけど、それは理性的な行動だろうか。
ずーっと昔から語られているであろう一種の道徳論を、インターネットの片隅から発信してみた。
コミュニケーションのコストと情報の断絶について
実に1年もブログを放置してしまった。それはどうでもいい。
「オタク」は、なぜ話が通じないのか。なんとなく気づいたことがあった。
彼ら(もしくは私も)は、コミュニケーション、つまり他人との情報交換に多くの“コスト”を消費するのではないだろうか。
彼らは往々にして、オタク仲間の間では、ものすごい勢いでトークを繰り出す。しかし、いわゆるリア充……話が通じない人の前では、借りてきたネコのようにおとなしくなる。
なぜだろうか。その理由は「情報交換にかけるコストの違い」にあると考えた。
オタク仲間同士であれば、バックグラウンドは共通している。つまり、情報交換コストを省ける。しかし、「リア充」、つまりバックグラウンドを共有しない人に対しては、情報交換にかけるコストが高すぎて、コミュニケーションが困難になるのだろう。
一方で、「リア充」と呼ばれる集団にも、共通のバックグラウンドがある。つまり、リア充はリア充の中で濃縮化が進むのだ。
異なるバックグラウンドを持つ相手との、コミュニケーションのコストを下げるには、どうすればいいのだろうか。思うに、「経験値を貯める」ということに尽きる。
バックグラウンドが異なる相手と積極的に交流するしかないだろう。オタク同士でスライム狩りもいいけど、スライムナイトとかアークデーモンとか倒して、経験値を稼ごう。
なんで大学に行くの?
クオリティ・オブ・ライフ
生きていくうえで大事なものってなんだろうと考えてた。金とか愛とかいろいろあるんだろうけど、何を目指すにしても、「健康」というベースがないと難しいだろうなと。
健康、とりわけ体の調子を整えるという意味での健康を保つためにどうするか、というと、私は「寝ること」と「食べること」が大事だと思う。それも時間や頻度より、内容とバランスなんじゃないだろうか。
学生をやっていたころは、よく寝ていた。一日13時間とか。寝すぎると調子良くないし、逆に体調が悪くなる。仕事をはじめてからは、寝る時間はばらばらになり、十分に眠れない日もでてくる。ただ、そういう日でも一時間程度、質的に満足な睡眠を確保できれば案外生きていける。そういう睡眠、だいたい朝方くるんだけどね……。
食べることはより重要だと思う。といっても、3食きっちりとったりはしていない。一日一食、昼食だけになったり、昼夜の二食になったりしている。ただ、その食事の内容は多少気を付けている。
「毎日ご飯とみそ汁を一杯ずつ摂る」、基本はこれだけ。昼飯に和定食を選ぶとかその程度のもの。おかずは好きなもの食べればよろしい。これだけで案外バランスは保てる。理想をいうと朝昼の二食の生活にしたいところだけど、起きられないので……。
ご飯とみそ汁取れてれば睡眠の質はおのずとよくなる、気がする。炭水化物だけの生活は体調と精神にくるので、やめたほうがいい。あれはほんときつい。
異性の服を着る理由
なぜこのブログを書くのか
一応、物を書いて飯を食っている。
飯の種にもならないものは、書く必要もない。能ある鷹は爪隠しておくのがよい。自身はトンビなのでこうしてペラペラ書いている。
書く必要もないこと、書いても価値のないことのうち、書きとめておきたいことをここには書くことにする。
とりとめのない文章、特にエッセイのような創作文は、実は練習しないと書けない文章だと思っている。というのも、文章は基本「型」がある。「何かを紹介する文章」は、「何かを紹介する文章の規則」に則って書くように練習すればすぐに慣れていく。
が、感じたことを文章の形で綴るのは、一見簡単なようで、私に取っては、難しい。
なにもないところから何かを作り出すのは、人間がいないと不可能なものだ。何かをみて、感じたことを記録として残すのは、一個人のパーソナルな部分に大きく依存するものだろう。
「型」がある文章では、読みやすくするための作業によって、属人性は薄くなる。しかし、エッセイの場合は、その人自身の考えがメインコンテンツだ。
要は、自分の考えで文章を書くのに慣れていないと、難しいのだ。その能力の不足を感じているので、練習台として、このブログを使いたい。